私ごと

自分の観点を言語化しておくブログ

責任者がいることはよくないのである。

責任者がいることが問題で、責任者がいると、その人に意思決定権が付与されるから、判断する人が存在する。そうすると、責任者に付随する人たちは自ら判断することをやめる。と同時にこの意思決定権が権力となってしまい、意思決定権の取り合いになって、政治闘争になる。するとコストがかかると同時にモチベーションの低下を引き起こすため、チームに個性も出なくなるし、仕事の効率も下がる。そして、多様性は殺されて、問題解決能力は低下する。よって、責任者が存在することは問題となるのです。

 

責任という概念は、期待の裏返しで、期待通りいかなかった場合の”損害賠償”の概念である。また、責任者を付けるということは、不信の表れである。つまり、予め損害賠償を取らせることを目的としている。勿論、責任は必要で、それはチームに付与されるのがよいと思われる。

 

以下の書籍の2章にはその実践が書いてある。

 

 

社会人になってからわかったこと・思索すべきと思ったこと(備忘録)

分かったこと

全部名目の話。

仕事は頼まれごと。

意思決定権が権力を作る。

意思決定権と計画は結びついている。

責任者が権力と意思決定権を作る。

意思決定権の取り合いが政治。

ピラミッド型組織は、人間の情報処理の能力や身体的限界から作られた構造。

金は人的資源の利用可能度を表す。

お金で買えるのは、非内発的協力。

非内発的協力は生産性が低い。

資源制約とニーズの共通性が中央集権構造を作った。

これらがなくなった現代では中央集権構造は機能しない。

責任は任せた人の意図通りいかないこと。それに対して資源を無駄にしたこと。

無駄とは意図通りになっていないこと。

意図は計画をつくる。

計画は予測可能なものに対してのみ作成可能。

価格は自分が思う価値である。

自己承認欲求は、自分の思う役割を果たすこと。

情報に資源制約は近似的にない。

エゴとは身体的危機から発生する概念。

法則とは、対象固有の性質から発生する限界。

一方、対象固有の性質も本来は可変。

思索事項

ルールに権力は必要か?(構造的に生じる法則のみ守ればいい)

不信の度合いがルールの数を決める?

すべてはつながっている

伊藤譲一はTedの動画で「技術開発の在り方が変わった」といいました。


Joi Ito: Want to innovate? Become a "now-ist ...

そして、今新しい組織パターンが出現してきています。

 

 

これは、多分イノベーションにも技術開発の在り方にもつながっており、人の幸福にもつながっています。

 

技術経営論

技術経営論

 

 

ぼくは、この変化を助長してくれるのが人工知能だと考えています。だからこそ、今「ホワイトカラー」と呼ばれている職業は不要であり、そこに属している人は別のことをしたほうがいいと思うのです。

 

そして、原始的組織構造である、官僚機構はそこで働く人や社会に対して、旧時代の組織運営を押し付けるため、その認識を強要する点で悪であり、そこに権力を持たせないためには、税金は下げる方がよいのです。勿論、それは国民の意識に依存しますが。

 

 

 

お金の役割(考察中)

貨幣論では、以下の3点にお金の役割があるといわれています。

・価値の尺度

・価値の貯蔵

・交換の手段

さて、カール・ポランニーは確かこんなことを言っていました。

・価値の尺度という役割は貿易から出てきた。

・決済の手段として初期の貨幣は誕生した。これは穀物であることが多い。

・交換の手段は、貨幣が量化可能であることから生じる

(経済の文明史3章の貨幣使用の意味論より筆者解釈)

一方で、貨幣は資源配分手段として存在している。

しかし、飢餓の問題がない場合の資源制約とは何だろうか。それは、計算量の割り当てである。今は、人のみであるが、計算機も含めて考える必要がある。そしてそれは所有権と絡み合っている。

価値の貯蔵という側面は、中央集権を可能にする。一方、中央集権にはトランザクションコストがかかり過ぎているのも否めない。

 

 

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: カールポランニー,Karl Polanyi,玉野井芳郎,石井溥,長尾史郎,平野健一郎,木畑洋一,吉沢英成
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2003/06
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責任という障害

人は、ある目的を達成しようとする際に、仕事を分割します。

この時、組織ができます。

分割した仕事は、誰かに任されます。

それは、分割者が測る信頼度によって分配されます。

(内容によって信頼度は変化します)

同時に、「意図通りに実行する」という責任が生じます。

しかし、意図通りにいかないということは多々存在します。

人間の思考はそこまでの情報量を扱えないからです。

その時、責任者という存在が必要になります。

これをものづくりのに当てはめます。

当然、上記のことはどのような社会でも存在するので、企業内でも存在します。

しかし、今回は企業外の話です。

この時、今製品を扱う運用者という人がいます。

しかし、運用者の大半の業務は人工知能の到来とともに自動化します。

一方、今度は人工知能の開発者に責任が付随します。それは、メーカーかもしれません。それは、IT会社かもしれません。パッケージによりけりでしょう。

しかし、これでは人工知能の開発は促進されません。

これをどうするかが問題です。

基本的には、オートパイロットも自動運転も同じ問題に当たります。

保険が解決するのでしょうか。費用便益が解決するのでしょうか。

日本人は費用便益では納得しないというのが現場感覚のようです。

信頼、責任、検査、権力、規則、良心のつながり

すべては、集団が形成されることによる概念です。

信頼は、ある目的を達成するための、サブ目的を他者に任せる際の尺度です。

責任は、任された側が信頼を達成することを言います。

検査は、信頼の確認です。往々にして、責任者が検査を受けます。

管理は、目的に合わせ整えることです。管理という行為を果たすために、検査をしています。

権力は、より多くの人から信頼されることによって、その信頼された主体に付与されます。

規則は、多くの人が同期して行動するために、形成されます。それは、権力によって担保されます。

規則の行動様式が当たり前になると、文化あるいは道徳になり、それが個人の良心を形成します。この良心は感情を喚起し、多くの人を動員する力にもなります。

規則を守る、あるいは良心的であるということは、信頼のポイントになります。これは、多人数の同期をきちんと行うことを担保するからです。

これは、言語によって表されます。というかそもそも言語は通信媒体です。

私たちの言語空間には、実はこのような道徳や良心をあらわす言葉があふれています。

さて、これらに「価値」と「情報処理」と「ゲーム的ななにか」(ちゃんと言語化できない。)という概念を組み込めば、社会科学で語られることの大体は演繹的に導出可能な概念群を生成できると思われます。

 

しかし、「価値」も「情報処理」も複合概念だから、やりづらそう。

 

 

Richになる発想

 

超訳 資本論 お金を知れば人生が変わる (<CD>)

超訳 資本論 お金を知れば人生が変わる ()

 

 よく考えると当たり前のことですが、価値というのは極めて主観的に決まっています。

例えば、今100円を持っているとします。今の社会では、この100円でたとえば、ジュースを買う、野菜を買う、漫画を借りるということが出来たりします。この100円は、その瞬間に自分が最も価値を感じたことに使用されます。

さて、量がたくさんあるものは、みんなが欲しがっても大丈夫です。それをどんどん生産できれば、無限に買うことができます。逆に、量があまりなく、みんなが欲しがっているものに対しては、「もっと多くのお金を払います」という人が出てきます。

例えば、今「伝説のはさみ」があり、なんでも切れて、世界に3つしかないとします。これをオークションにかけると、当初100円でも、みんなが「これは素晴らしい」とおもい、「もっと払う」と思えば、価格は上がります。

この時、1万円まで上がれば、合理的に考えれば、ジュース100本より価値があると感じたということになります。

勿論、他人の欲しがるものを欲しがるという人間の性が、価値を吊り上げますが。

 

この「伝説のハサミ」は、佐藤さんという職人にか作れないもので、そのため、年間3本しか発売されていないとします。この時、ある科学技術者がやってきて、これを大量生産する方法を発明したとします。すると、巷にはどんどん「伝説のハサミ」があふれてきて、しまいには普通のハサミと同じ値段で売れるようになります。

この時、佐藤さんは職を失い、みんなはハサミの切れ味がよくなってハッピーになります。

これをあらゆることまで拡大すると、多くの人は「生産者、労働者」としてどんどん不幸になり、「消費者」としてどんどん幸福になっていくことを意味しています。

さて、冒頭の「超訳資本論」には「技術進歩が労働の価値を下げ、人を不幸にする」とあります。

この例のように、技術進歩は労働の価値を下げます。多くの人は収入が減ります。同時に、市場で売られているものの価格もますます低下します。

よって、「労働者」は常に「日々の生活」を行うための、賃金が与えられるのみとなり、また、多くの人が労働者になるような圧力が働きます。そして、資本家がより資本を蓄積し、つぎの投資をし、ますます多くの労働者を生み出します。

 

しかし、ここでだいじな発想は、「価値がある」と思えば相手はお金を払うということです。そのため、「私には○●の価値がある」と表明し、自分でその価値を値段付し、それを売れば、労働者ではなく資本家になれるということです。

現代においては、資本家は必ずしも「資本」をもっている人ではなく、「知識」をもちそれを社会の中で価値のある形に自己定義できる人かもしれません。

この発想の下、書かれている本が以下の本なので、読まれてみればいかがでしょうか。